特集: Kate Bush, “Hounds of Love”
ケイト・ブッシュの5枚目のフルアルバム『Hounds of Love (邦題:愛のかたち)』は、間違いなく彼女の最高傑作でしょう。今聴いても35年前にリリースされたとは思えないほど先進的で、聴くたびに新しい発見がある。にも関わらず抜群のポップさと、風通しの良さで、どんな気分でも心地よく迎え入れてくれる。今回は自称ケイト・ブッシュオタクの著者が、このアルバムの魅力を音楽性、歌詞、そしてテーマから読み取っていきたいと思う。本題に入る前に、前作『The Dreaming』について触れておかねばならない。
ケイト・ブッシュはセルフプロデュース力にとても長けていて、アルバムのプロデュース業には、実は3枚目の『Never for Ever (邦題:魔物語)』から携わっている。次作『The Dreaming』で彼女は共同プロデューサーとして、その力をさらに磨きあげる。36トラックMTRを2台シンクロさせた、72トラックの多重録音という偏執狂的なセットアップで録音を行ない、彼女独特の禍々しい(褒めてます)音世界を作り上げた。”Sat in Your Lap”の噛み付いてくるようなコーラストラックに、”Get Out of My House”のラバを真似たシャウト、そしてアボリジニの文化に言及したブードゥーポップ”The Dreaming”など、あまりの挑発的な内容で、ファンや批評家からは「ついにイかれちまった」と言われてしまった。商業的にも不発に終わった。今ではエクスペリメンタル・ポップの名盤として拝められているのだから、彼女としてはしてやったりなのだろう。そうそう、今作はDAWを語る上でとっても重要な「フェアライトCMI」がメインの楽器として使われている。フェアライトCMIで得た実験と経験がなければ、『Hounds of Love』の豊潤なサウンドはなかった。ケイト・ブッシュがベッドルームポップの先駆け的な存在といったら、言いすぎかしら。『Hounds of Love』は『The Dreaming』の3年後に産み落とされた。
伝説的な「失敗作」のあと、ケイト・ブッシュは心身ともに疲弊してしまい、実家で長期の休暇をとる。休暇の最中、1978年に裏庭に建てたデモ収録用の小屋を改造し、24トラックの”自分だけのレコーディングスタジオ”を建て、そこで自由に、好きな時に作曲を行なった。ガチな宅録アーティストの誕生である。まさに誰にも邪魔されない、彼女だけのリラックスした空間で、撮りためたデモを元に、本格的なレコーディングを開始。フェアライトCMIが今作でも大活躍した。リズムの下敷きとなるドラムシークエンスを全てフェアライトで打ち込み、スタジオミュージシャンに手渡した。次にアルバムの構成について説明する。
『Hounds of Love』は、シングルリリースに適したコマーシャルな楽曲を集めたA面「Hounds of Love」、海で遭難した女性の心の揺らめきを描くコンセプトアルバム「The Ninth Wave」と、レコードの表と裏で構成が別れている。A面のオープニングトラックを飾るのは言わずと知れた”Running Up That Hill (A Deal with God)”。「もし可能なら/神と契約を結んで/あなたとわたしの体を交換する/そうすればあの道も/あの丘も/難なく走り抜けられるのだろう」というジェンダーを話題にしたラブソングで、12”ミックスがアメリカのダンスチャートでも大ヒット。当初は"A Deal With God”というタイトルだったそうだが、宗教的なメッセージからの批判を恐れたレーベルによって取り下げられたそう。インディーキッズにはPlaceboやChromaticsのカバーで知られているかも。勢いを崩さないまま、次はアルバム表題曲のシングル”Hounds of Love”。直訳すると「愛の犬」。アルバムカバーにワンちゃんがいるのはここから。イギリスの1957年のホラー映画、”The night of the Demon”のワンフレーズ「It’s in the trees! It’s coming! (木の中に隠れてる。来るぞ!)」のサンプルで始まるこの曲。歌詞の一部が”Gone to Earth”という映画にインスパイアされ、また自身が監督したミュージックビデオはヒッチコックの「The 39 Steps」が下敷きになっており、彼女お得意の映画からの引用がいたるところに見られる。4つのタムをセットし、多重録音したというとにかく分厚いドラムサウンドと、ベースサウンドを取り除いたサウンドが生み出す浮遊感が特徴。The Futureheadsのカバーでこれまたインディーキッズに人気です。
続いては最初から最後までクライマックスのとにかく楽しいビッグジャム、”The Big Sky”。「I’m looking at the big sky/ You never really understood me/You never really tried (わたしは大きな空を見つめている/あなたにわたしのことなんかわからない/わかろうともしないで)」『The Dreaming』で彼女を疑った批評家やパブリックイメージに大きな中指を立てているように感じられる今曲は、後半の吹っ切れたスキャットに注目。”The Big Sky”の興奮を一気に冷ます、ダークな”Mother Stands For Comfort”は、また異なる形で愛のテーマに切り込む。フェアライトのガラスが割れる音の張り詰めたテンションのなかで歌われるのは、犯罪者を息子に持った母親のストーリー。「Mother stands for comfort/ Mother will always be mom(母親、それはつまり安心できる存在/何があろうと「母」であり続ける)。A面のラストを飾るのはノンフィクションノベルにインスパイアされたドラマチックな”Cloudbusting”。天気をコントロールする技術を提唱し、政府に連れ去れた父親に持った息子のストーリーで父の愛を語る。「Everytime it rains/ You’re here in my head/ Like the son coming out(雨が降るたびに/あなたのことを思い出す/まるで日が昇るように)」フェアライトのシンセストリングと生のストリングの分厚いサウンドが感動を呼び起こす。ドナルド・サザーランドを起用したミュージックビデオは、まるで一つの短編映画を見ているような気分にさせてくれる。このドキュメンタリーによると、”Cloudbusting”には”Running Up That Hill”で使われた音楽的モチーフが再登場するようだ。そして曲の終わりに使われる [ Db]がB面の長い旅を皮切るキーとして、再び顔を出す。
B面は「The Nineth Wave」と名付けられた26分のコンセプトアルバムで、海で遭難した女性の生と死を漂う意識の流れを、様々な比喩と驚くべきイマジネーションで追求する。オープナー”The Dream of Sheep”は海に漂う女性の心情を描き、彼女のこれからの旅を示唆。「I can't be left to my imagination/Let me be weak, let me sleep and dream of sheep(想像の中にいてはいけない/か弱くいさせて、羊の夢をわたしに見させて)」。朦朧とした意識の中で最初に彼女が想像するのが、凍った川にとらわれる自分自身(”Under Ice”)。「わたしは一人、氷の上をスケートする。氷の下に誰かいる。それはわたし自身だった。誰か、助けて!」。次のモチーフは魔女狩り(”Waking the Witch”)。彼女の家族や知り合いが「起きなさい、起きなさい!」と呼びかけるシーンで始まり、おどろおどろしい悪魔のようなコーラスが「お前は魔女だ」とののしり声をあげる。呪術的なつぶやきや、ファルセット、意味をていさないフレーズのつづなりは、聴いていて正直怖い。曲の最後に聞こえるヘリコプター音は、誰かが彼女を探しているのだろうか。その後意識がたどり着いたのは、彼女の帰りを待つ「家族」だった(”Watching You Without Me”)。彼女の意識は幽霊のように体を離れ、家族の元へ。「わたしのことが聞こえない/わたしのことが感じられない/今あなたたちと同じ部屋にいるのに/わたしの声が聞こえない、そうなんでしょ?」。魔女狩りの叫びが後半で挿入され、意識の流れが交錯しているのがわかる。部屋を出た後、彼女を待ち構えたのは、未来の自分だった。
自身のルーツであるアイリッシュ音楽をフルに取り入れた”Jig of Life”は、個人的にケイト・ブッシュの曲の中でも1、2を争う名曲。歌詞も本当に卓越していて、全部載せたいのですが、それはまた別の機会に。「あら、おばあさん/あなたのことはよく知っている/彼女は言った『わたしはあなたの鏡の前に座っている。今が未来の別れ時。将来のことを見てごらんなさい。決して決して、未来のわたしにさようならと言わないで。わたしに生きさせてほしい。』そう彼女は言ったのだ」。未来の自分が生と死を彷徨う自分に話しかけるという激アツ展開!アルバムはここで一つのピークを迎える。最後に彼女の意識が行き着いたのは、宇宙空間だった。朦朧とした意識を宇宙遊泳にたとえたクライマックス”Hello Earth”は、地球にいた頃の自分を想像し、なぜわたしは地球を去ったのかと、自分に問いかける。そして海を職に持つ全ての人たちに、海から去り、家に帰るように叫ぶ。グレゴリオ聖歌隊の魂を浄化するようなコーラスが、彼女の精神を地球に引き戻すかのように、アルバムは最後のトラック、”The Morning Fog”で締めくくられます。夜が明けるような開放感に溢れるこの楽曲は、”Cloudbusting”にそっくりなモチーフが再登場し「家」に帰ってきたことを示唆している。果たして彼女は救われたのだろうか。歌詞の内容を載せますので、ぜひ想像してみてください。
The light
Begin to bleed
Begin to breathe
Begin to speak
D'you know what?
I love you better now
光が
溢れ
息をし
話しはじめる
ねえ、きいて
今ならみんなのこと、もっと愛せるわ
I am falling
Like a stone
Like a storm
Being born again
Into the sweet morning fog
わたしは落ちてゆく
石のように
嵐のように
また生まれ変わるのね
甘い、朝の霧の中に
D'you know what?
I love you better now
ねえ、きいて
今ならあなたのこと、もっと愛せるわ
I'm falling
And I'd love to hold you know
I'll kiss the ground
わたしは落ちていく
みんなのことを抱きしめられたらいいのに
地面にキスをする
I'll tell my mother
I'll tell my father
I'll tell my loved one
I'll tell my brothers
How much I love them
お母さんにこう言うの
お父さんにも
大好きな人にも
兄弟たちにも
わたしがどれだけ愛しているかってことを
実験性とコマーシャルな魅力が、最高のかたちで融合した今作は、商業的にも恵まれ、ケイト・ブッシュの音楽性は自作の『Sensual World』で中期のピークを迎える(こちらも大傑作)。このアルバムに初めて出会ったのが、2011年頃。ソングライティングの面でも、歌詞の面でも、サウンドの面でも、聴くたびに新しい発見があります。”Hello Earth”で主人公がドイツ語を最後話すのはなぜだろうとか、主人公は本当に救われたのか、とか、”Waking the Witch”のヘリコプター音とか、まだまだ謎も多いのですが、ヒントとなるのが『The Nineth Wave』を完全再現した2016年のライブ盤「Before the Dawn」。オリジナルにはないスキットが各所に挟まれ、今作の不思議をちょっとだけ紐解いてくれます。まだの方はぜひ、きいてみてください。そして一度きいたことがある人も、今回また興味を持っていただけたら嬉しいです。